「んだぁぁぁーーーー!! もうっ、思い出せないっ」
どれだけ頑張って記憶を掘り起こそうとしてみても、結局は何も思い出せずに、芽衣は父親のベットの上で胡坐をかいて頭を抱える。どこまで覚えているかと言えば……そう、化粧室で櫂理にキスされたところまで。その先は、なんだかよく分からなかった。
それまでよりも強いお酒を飲んだような気がするだけで、その他のことと言ったら、妙に生々しいあの夢しか思い出せないのだ。
『芽衣……』
耳に残る囁き声は、櫂理のもののような気もするし、そうでない気もする。
あの時――――披露宴が始まったあの時、櫂理が三年ぶりに自分の名前を呼んでくれて、芽衣は本当は嬉しかった。忘れられていなかったという事実が、何よりも嬉しかったのだ。
なのに、混乱して『どちら様でしたっけ?』なんて、バカげた返事をしてしまった。あの時、明るく『久しぶりね』と答えられていたなら、何かが変わっていたのだろうか?
「バカだな。今更考えたところで何も変わらないじゃない」
そう呟いて膝を抱き、その間に顔を埋める。
過ぎた時間を巻き戻すことはできない。ろくに話もしないまま、きっともうこんなふうに偶然に会うこともないのだろう。そんなに頻繁に『偶然』が起こるはずもないのだから。
そんなことを考えていると、心臓がきゅっと痛むような気がして、芽衣はぶんぶんと頭を振る。その途端に二日酔いと言う名の酷い頭痛に見舞われ、視界が涙で潤んだ。
ポロリと瞳に浮かんだ涙が零れて落ちる。
それがただの頭痛によるものなのか、それとも別のものなのか……あえて芽衣は考えないことにする。
「とにかく、着替えしなくちゃ」
頭痛が発動しないよう、ゆっくりとした動きでベットから降りる。
買ったばかりのパーティードレスは見事なまでにしわだらけで、芽衣は思わず苦笑いした。その途端に、下の階から微かに携帯の着信音が聞こえてきて、芽衣は痛む頭を片手で支えながら階段を下りた。
着信音は玄関に放り投げられるように置いてあるハンドバックの中から聞こえてきている。きっと酔っ払って帰ってきて、ここに放り投げたんだな、と思いながら芽衣はハンドバックから携帯を取り出して通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『芽衣ーーーー!!!! ねえっ、芽衣っ!! あなた、大丈夫なの!?』
「き、絹ちゃん……」
携帯から大音量で聞こえてきた声は、どこか湿った絹の声で。確認するまでもなく、号泣しているに違いない。
『よ、よかった……っ。全然携帯も通じないし、本当に心配したのよ!!』
うわーん、と派手な鳴き声まで聞こえる始末。絹も大変なのかもしれないが、二日酔いの状態で、携帯電話が壊れんばかりの大声をぶつけられる芽衣もたまったものではない。
「き、絹ちゃんたら…… 大袈裟なんだから。私は大丈夫だったよ。それより、ちょっと声のボリューム落としてもらえないかな?」
『まさか』
芽衣の言葉をどう邪推したのか、絹の声は3トーンほど低くなる。それはもう、魔女のような声。
『誰かそばにいるの?』
けれど、芽衣はその変化に気が付かない。まだアルコールが残っているせいもあるけれど、どちらかと言うと、シラフのときにも同じようなものだ。根っから鈍い。
「? 誰もいないけど? どうして?」
携帯の向こうから、ほうっと長いため息が聞こえた。
付き合いの長い絹は、この芽衣の反応で本当に一人なのだと……正確にはあの野獣(と、勝手に絹が思っている)『橘櫂理』と一緒じゃないこと確信していた。
それがわかれば、絹としては一安心なのだ。
『そう、一人なのね? よかったわ。ちゃんと一人で帰ったの?』
「それがね、わからないの」
『わからない!?』
再び大きくなった絹の声に、芽衣は耳から携帯を離してしかめっ面をする。
「うん。よくわからないの。気が付いたらね、どうしてかお父さんのベットで寝てたんだ」
てへっと笑うと、再び携帯の向こうからため息が聞こえた。けれど、さっきのため息とは種類が違う。完全に呆れモードで……
それでもその後に聞こえてきた絹の声は、少し前の魔女のようなものではなく、温かな慈愛の篭った声。
『ごめんね、芽衣。アタシがちゃんとそばに付いていてあげるべきだったわ。でも、よかった。芽衣が無事で』
「絹ちゃん……」
どれだけ鈍感な芽衣にも、絹が本気で自分を心配してくれていることだけはわかる。高校時代に出会った頃からずっと、絹はこうして芽衣を守ろうと必死になってくれているのだ。
そう、あの日からずっと……
『芽衣?』
思い出に耽って黙りこくった芽衣に、絹が声をかける。
芽衣ははっとして、どっぷり浸かっていた思い出から抜け出す。
『どうかした? 黙りこくって。具合でも悪いのかしら?』
「ううん。ちょと、昔のこと思い出してただけ。絹ちゃんと会った頃のこと」
『そう。……あのね、芽衣』
「何?」
『アタシはね、昔も、これからもずっと、芽衣のこと守っていくわ。だってアタシはあなたのおかげで生きていられるんだもの』
「……絹ちゃんたら」
どうやって答えていいのかわからず、芽衣は照れたように鼻の頭を指先で掻く。妙にしんみりした空気を振り払うかのように、絹がくすっと笑った。
『でも、本当に安心したわ。私なんか、エリに引きずり起こされたり、往復ビンタを食らわされたり……酷い目にあったのよ。まあ、エリの家に泊めてもらえたから助かったけどね』
「エリちゃん、昔から絹ちゃんに厳しいもんね」
『本当、酷いのよね』
そんなことを話しながら、芽衣は玄関の一角にキランと光る何かを見つけた。
玄関に降りて拾ったそれは、自宅の鍵で。
ああ、酔っ払ってここに落としたんだと納得する。けれど、ふと見た先に並ぶ昨夜履いていたハイヒールは、酔っ払いが脱いだとは到底思えないくらいに綺麗に揃っていて。
『芽衣? 聞いてる?』
「え? え、と。うん」
なんとなく引っかかるものがあって、慌てて居間に駆け込む。
台所に水の入ったままのグラスがひとつ。それは普段は手が届かなくてあまり使わないような、食器棚の高い位置に置いてあるグラスで。
『芽衣? ちょっと、何かあったの?』
あまりにも上の空な返事ばかり返してくる芽衣に、不安になって絹が訝しげな声を上げる。
「あ、ごめんね。絹ちゃん」
『もうどうしたのよ?』
「あのね」
鍵は玄関に落としているくせに、ハイヒールはきちんと揃えてあったこと。
普段はつかわないような位置のグラスを取って、水を入れたままで飲んだ形跡もないこと……
「酔っ払いって、思いも付かないような変な行動するものなのね」
そう言って芽衣は、妙に納得した顔で頷くのだった。
――――芽衣が事の真相に気がつく日は、永遠に来ないのかもしれない。
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